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切り取られた風景


2025.10.12


イメージ写真

 スマホの壁紙を、風景写真がランダムに表示されるよう設定した。数時間おきに切り替えられる写真は、見たこともないものばかりである。最初は、著作権で縛られていない海外の写真をランダムに出しているのだと思った。ある時、それらすべての写真が、私自身が旅先や近所の散策で撮ったものであることに気づいた。上手く切り取られているのだ。下手な私の写真が(大げさだが)芸術写真になっている。海外の近代的なビルと思ったものは、近所のマンションだった。水に映る美しい白鷺が、近所の沼の写真に小さく映り込んだ小鷺だった。驚くべき変化だ。これもAIの力か。

 実は、この切り取り効果により、先日の旅行で取った写真が数段美しいものになった。それだけではない。涼やかな空気までも感じられるようになっている。つまり、AIのやっている、私とは違った見方で「最も美しい部分」だけを取り出すという行為により、新たな感動が湧いて来た。余計なものを除外することで新たなものが生みだされることもあるのだ。

 ところが、切り取られた動画、切り取られた音声は物議を醸すことが多い。ある人の話したことの一部だけを取り出して、前後の情報を伝えずに聞かせれば、思いもよらぬ内容の話に変えることも可能になってしまう。それを意図的に行えば、当然ながら人を騙すこともできるだろう。事実、我々は、マスコミやSNSを通して、部分的な情報ばかりを伝えられている。意図的であろうとなかろうと、我々は切り取られた風景だけを見せられているのに、あたかも全てを見た(聞いた)ように錯覚してしまう。それで、何かを判断しなければならないとしたら、とても危険な行為である。AIなら意図的にそれが出来てしまいそうで恐ろしい。我々は、常に全体像を見ることを意識している必要がある。

 一方、多くのものが含まれることで、物事の本質が見えづらくなることも確かである。目を凝らして細かい所を見ることが、新しい発見をもたらすことはよくある。研究の世界では当たり前のことである。しかし、普通の生活においても似たようなことを経験していることに、最近になって気づいた。自分の持っている何かがなすすべもなく失われていく経験は、すべての人に平等に訪れる。高齢になればできないことが日々増える。一方で、蓄えてきたものは日々減っていく。否応なしに、自分の持てるモノ(能力)が切り取られていく。そのような中、自分自身の考え方が変化してきたことを実感するようになった。

 子供の頃は、努力すれば夢は叶う、と信じていた。仕事も子育ても両方がんばっている自分は偉い、と息巻いていた頃もある。しかし、体力、集中力、理解力、記憶力が徐々に減退していき、ワーク・ライフ・バランスどころかライフを維持していくのが精一杯の今、見方が変わった。誰でも努力すれば夢が叶うわけではない。誰でもがんばれば複数のことをバランスよくこなすことが出来るわけではない。人それぞれ、自分の持てる物、力は違う。誰にも必ず強みはある。それを見つけ出して最大限生かしつつ生きて行けばよいのではないか、と思えるようになったのである。他人と違うことは当たり前のことなのだ。 切り取られた風景と弱くなっていく自分。どちらも、新たな発見をもたらしている。

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