インターネットで「終わった」という言葉から始まる記事の見出しを見つけた。その後には、親の介護や家族の問題が続いている。とっさに、これは良いニュースだと思った。多分、多くのトラブルを抱えていた人が何とかそれらを解決させて、ようやく自由の身になれたということなのだろう。私にもそんな経験がある。しかし、中身を読んで驚いた。真逆のことが書いてあるではないか。「終わった」のはトラブルではなく、自分の将来の人生だということらしいのだ。つまり、トラブルによって自分の人生(具体的には自分の生活、仕事、キャリアなど)が奪われ、将来が見えなくなったということである。つまり、最近は、「終わった」は「人生終わった」の意味らしいのだ。
一方、私にとって「終わった」は「何かを成し遂げた」とほぼ同義である。そもそも高齢者にとって「人生終わった」は「死」を意味するので、よほどのことがない限り軽々しく考えない。それを意味する言葉など発したくない。それよりも、苦しいこと、困難なことが「終わった」ことで肩の荷を下ろし、後は自分の人生を楽しみたい、と前向きに捉えたい。
「終わった」すなわち「成し遂げた」は、次の行動の糧となる。次もがんばろうと言う気持ちになる。終わらせた困難が厳しいものであればあるほどそれは大きくなる。しかし、ここに問題がある。当然ながら、困難というものは自分の意思ではなく外から突然やって来るものだ。例えば病気、災害など。下手をすると本当に「人生終わった」になってしまう。できればそのようなことに遭遇したくない。ここでは深刻な話はしたくないので、日常的な行動の中の「成し遂げた」感の実現について考えることにする。
歳を重ねると、様々なことをするのが億劫になる。特に新しいことを始める意欲が湧いて来ない。長く生きていれば大小様々なトラブルに見舞われた経験が多いので、先走ってトラブルを想像してしまう。それによって、「できればやりたくない」「逃げ出したい」という思いが強くなる。若い頃は、新たな経験から得られる喜びへの期待が勝っていた。だから、大胆な行動ができたし、それによって得たものも多大だった。あの頃に戻るのは無理だが、このまま逃げ回っていたら「成し遂げた」感は得られない。ではどうするか。
現在の私は、「とにかく目をつぶって飛び込む」ことで一歩を踏み出し、「猛スピードで駆け抜ける」ことで困難を意識せずに先に進むことを自分に課している。困難を意識してしまったら、「これは神様が私に与えた試練だ」と甘受する。それで何とか「人生終わった」にならずに済んでいる。これは意外に効果がある。なぜなら、戻るに戻れない状況に追い込まれるからである。その結果得られたことは、いつも想像以上に大きい。
言葉の使い方が時代とともに変化しているのは事実である。それを意識しつつ、ネットのニュースや書き込みの中身を理解することにしよう。でも、私自身の感覚も大切にしていきたい。「終わった」は決して「人生終わった」と捉えたくない。困難を克服し、その先で何かを「成し遂げた」と捉えたい。そうすることで、新しいことにチャレンジする勇気が湧いてくるはずだ。認知症予防にもなることを期待している。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)

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終わった先にあるもの
2025.9.28