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次は無いかもしれない


2025.5.25


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 ずっと自分は長生きできるような気がしていた。父は10年前に97歳で天寿を全うしたし、母は100歳を超えて高齢者施設で暮らしている。その子供なのだから。しかし、たとえ長生きできたとしても、私が望んでいる姿、すなわち「生きがいを持って幸せに暮らしている」になっているとは限らない、と最近感じ始めた。そのきっかけは2つある。

 この数年の間に、かつての上司、友人たちが亡くなっている。いずれも80歳前後なのである。そこに壁のようなものがあって乗り越えられなかったような気がしてしまう。母も、70歳台と80歳台はできることが全然違う、と言っていた。私はあと3年で80歳である。持病はない。でも、明らかに年々体力が落ちてきている。何かがひたひたと忍び寄ってくるような恐ろしさを感じる。

 もう一つは、100歳の母の現状である。施設のスタッフの言葉によれば、母はとても元気とのことである。でも、認知症が進み私のことは娘とは認識できない。さらに、車いす生活であり介助がなければ生活ができない。昼間も眠っていることが多い。確かに幸せそうに生きてはいる。でもこれが私の望んでいる「幸せに暮らしている姿」なのだろうか。

 私の考えている「幸せ」は、「達成感と充実感を感じられること」なのだ。単に病気でない、自立した生活ができる、ではない。それはベースラインにすぎない。達成感と充実感とは、何かをやり遂げた時に高揚感が体の中に満ち溢れる感覚である。それが得られるためにはどうすればよいのだろうか。

 何かを成し遂げるためにはそれを始めなければならない。その前に「何か」を見つける必要があるのだが、それほど難しくはない。それを「始める」のが非常に難しい。そこには高いハードルがある。それは自分自身が作ってしまうやっかいものなのだ。面倒、怖い、やりたくない、その他もろもろのできない理由などは、星の数ほど見つけられる。そのハードルを乗り越えるためには、起爆剤、すなわち背中を押してくれるきっかけが必要だ。

 若いころは、多くの始まりは仕事の上で強制的に訪れた。それでも、終了時の達成感が次の始まりの起爆剤になっていたように思う。今の私はどうだ。始まらないので終わらない。結果として達成感がない。だから次も踏み出せない。この負のループに陥りがちである。これから抜け出さなければ80歳の壁に激突するだけだ。ここは強制的にでも始めるように自分を追い込むしかないのではないか。

 ここで見つけたのが、「次は無いかもしれない」という言葉である。例えば、ある国に関心を持ったとして、60歳台までは「今行けなくてもまだチャンスはある」と考えられた。しかし77歳になろうとしている現在は、その可能性は限りなく少ないと言える。行く機会があったとして、その時点で健康に不安が無いとは言えない。一緒に行ってくれる人が見つからなければ無理かもしれない。 もう、断捨離なんてしている暇はない。機会を探そう。そして「次は無い」と自分を追い込んでいくのだ。常に、行動するのは今しかない、という気持ちを持ち続けたい。

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