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人間は最期にどこに行くのか


2025.4.20


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 昨年(2024年)夏、母が100歳になった。年が明けたころ、母の入っている特別養護老人ホームから連絡があった。昼間も寝ていることが多くなったということである。高齢なのでこれから何が起きても不思議はない。1年前から、母は私を娘(自分の子供)と認識できなくなっていた。それでも、何とか会話は成り立っていた。しかし、先日、訪ねて行ったときは、ぐっすりと眠っていて、寝顔を見ているだけで面会時間は終わってしまった。これから先もこのようなことが続くのではないか。

 母の寝顔は、まるですやすやと眠るあかちゃんのように幸せそうだった。それを見て、やはり人間は老いていくと赤ちゃん返りするのかと思った。しかし、そんなはずはないのだ。100年間生きてきて経験したことは、体の中、特に脳内に必ず何かの変化をもたらしているはずである。ダメージを受けて失われているものがあったにせよ。決して、生まれたときに戻るということはありえない。ただ、脳内に何が残っているのか知ることはできない。

 時々、母に会いに行くことを躊躇している自分に気づいて情けなくなる。母は会っても私が誰だか分からない。私と会ったことはすぐに忘れてしまう。会いに行くことにどういう意味があるのか。単なる私の自己満足ではないのか。冷たい娘だと見られることを避けたいだけなのかもしれない。しかし、特養ホームからの帰り道、母に会いに行く意味は別のところにあることに気づいた。 帰りの列車の中で、私は2人の娘たちに母の状況をLINEで報告した。つまり、母の情報を伝えたのである。それは私の子供たちにとっての新たな情報となるだけでなく、過去の情報(おばあちゃんと過ごしたこと)を呼び起こすきっかけになるかもしれない。さらに、それが孫たちに伝われば、その脳内に「ひいおばあさん」の存在した情報が残るはずだ。つまり、その日私が母を訪ねて得た情報は、未来に向かってつながりながら広がって行く可能性ができたことになる。母についての情報(記憶)が残る可能性が強まったのだ。

 人間は、人生がいつかどこかに戻って再出発できることを望んでいるのだろうか。自分自身のどこかに戻ることは無理でも、別の人間に生まれ変わってやりなおせることを望んでいるのかもしれない。私は、それはありえないと思っている。やはり、人間は最期を迎えたら消えるしかないのだ。少なくとも肉体は。でも別の所に確実に残るものがある。その人が存在した記憶である。それは残された人たちの脳内に刻まれている。それすらも消えてしまった時が本当の最期なのだ。私は、母の記憶を次の世代の人達に伝えるために、これからも特養ホームに行くだろう。決して自己満足のためではなく。

 時の流れは速く、私も80歳が視野に入って来た。75歳を越えてから、新たな社会活動に無理をしてでも参加したいと思うようになった。3年前に飛び込んだ多言語学習がそうだし、16年ぶりに米国に行き、シリコンバレーの技術者たちと交流したのもそうだ。行きたくない、やりたくない、面倒だと引きこもりたくなる気持ちに鞭打って出かけるのは、死ぬまでにできるだけ広い記憶のネットワークを作っておきたい気持ちの表れなのに違いない。

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