後期高齢者の現在、若い時とは大きく違うと感じるのは「病が治っても元には戻らない」ということである。若い時(65歳未満)は、病気やケガをしても、これが治れば元の生活に戻れる、ひょっとしたら以前よりも健康になるかもしれない、という期待をすることができた。しかし、この10年間は違う。例えば、10年近く前に起こした左の腰の肉離れでは、体のバランスを崩すことが無くなるまで1年、走れるようになるまでに3年以上もかかってしまったが、結局ケガをする前の状態には戻らなかった。現在も左の膝から爪先にかけてしびれが残っている。生活に支障はないので気にしないでいるだけである。
この夏の右の腰の不調は左の腰よりはかなりマシかもしれない。歩けなかったのは1日だけで、普段の生活に支障は殆どなかった。しかし、右足のこわばり、むくみが3週間以上続いていた。それも一日経つごとに改善して行った。その頃から、どの段階で全快したと言えるだろうかと考え始めた。その時には自分だけの「快気祝い」をしたい。しかし、その時が定められなかった。改善しているのにいつまで経っても以前の状態に戻ったとは言えないのだ。発症から1か月目、一番目立った違いは正座ができないことだと気付いた。では、正座ができたときを快気祝いの日と決めよう、と決心した。
ネットを検索して、正座ができるようになるためのストレッチやマッサージの方法を見つけ出した。そのうちのひとつが効くことに気づいた。「痛気持ち良い」感覚が癖になりそうである。何と始めた次の日には正座ができてしまった。ちょっと嬉しかったのでプレ快気祝いのつもりでスーパーで大福を買った。しかし、長時間の正座ができなければ全快からは程遠いような気がする。ストレッチ後の正座の時間を計ってみることにした。2,3日後には5分ぐらいは続き、さらに続けられそうだった。それでも、全快と認めるにはためらいがあった。かつてはもっと自然に正座をしていたはずなのに、今は意識しすぎている。
嫌でも人間は歳を取り、体は衰える。自分では歩くスピードは落ちていないと思っているのだが、横をスマホ片手の若者が追い越していく。一緒に信号待ちをしていた高校生グループは、気づいたら遥か彼方を歩いている。衰えた体は元には戻らない。病気やけがをすれば後遺症が残る。若い人ならそれが解消する希望はあるが、高齢者になるとほぼない。あとはそれとうまく付き合っていくしかない。今回も、正座ができるようになっただけで上等ではないか。いつまでも後ろを振り返ってばかりいてはいけない。諦めも必要だ。もう前を向こうではないか。新しい喜びを見つけていく方が良いに決まっている。
私が多言語の学習を続けているのも新しい喜びを見つけたいからである。明らかに何十年と勉強してきた英語の語彙力は落ちていて、多分、毎日多数の単語が頭から抜けていっているはずである。もちろんテストする気などない。でも、トルコ語でメルハバ(こんにちは)と言えただけ、ヒンディー語でダンニバ(ありがとう)と言っているのが聴きとれただけで、嬉しい気持ちになれるのだ。新しいことへの挑戦は0を1にすることを可能にする。
さて、今日を「快気祝い」の日としようか。とっておきのビールが冷蔵庫で待っている。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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正座はできても全快とはならないのか
2024.9.15