高齢になると、他人との付き合いにおいて、しがらみや義務に囚われなくて済むという特権が得られる。これは、若い頃には手に入れることが難しかったものである。例えば、現役時代には嫌でも組織のルールに従わなければならなかったし、親世代のしきたりや常識に従わなければならなかった。しかし、今では、他者との付き合い方はもう自分の意思で決められる。付き合いたくない人とは付き合わなくても済むし、親戚づきあいでは何をしても誰からも文句は言われなくなる。いや、言われていても分からない振りができる。裏を返せば、他人との距離の取り方については自己責任ということになる。
これまでの75年の人生で様々な人間関係のトラブルを見聞きしてきた。その根本にあるのは「他者との距離の取り方を間違えたこと」であると思っている。大きいのは近づき過ぎである。「他者」には配偶者は勿論、親兄弟や子供たちも含まれる。むしろ血がつながっているなどごく近しい関係の方が、大きなトラブルとなりがちで、その根も深くなる。
私が他者との距離の取り方を意識するようになったのは、人生の折り返し地点の50歳を越えた頃からだろうか。その頃から、他人のことは詮索しない、つまり、他人が自分から言わない限り尋ねないように努めるようになった。勿論、他人には上記の「ごく近しい人たち」も含まれる。聞かないのは、「言わない理由」が次の2点であると思うからである。
・それを言いたくないか知られたくないからである
・そもそも言うのを忘れるくらいどうでもいいことだからである
いずれにしても、それを尋ねることは単に自分の興味を満足させるためだけなのだ。相手のことなど全く考えていない。その結果、自分のことも話さないで済むようになった。さらに、他人から詮索されることも無くなった。お陰で平和な毎日が送れている。
コミュニティでの付き合い方にも気をつけている。勿論、前述の「他人との距離の取り方」は共通しているが、もう一つ、そのコミュニティの考え方や思想をどこまで受け入れるかも問題になる。あるコミュニティに属していて、そこでの活動が自分の健康にとって非常に有効であったとする。でも、そのコミュニティがその根拠としてある理論を信奉しており、自分がそれには納得できない部分が多いと考えられるとしたらどうしたらよいだろう。その時は、表立って反論することはせず、賛成できる部分だけは同意しておいて活動を続ける。分からないところで別の行動をとる。これが「距離を取る」ということになる。
あるコミュニティに属するすべての人が同じ考えを持ち、それに基づいて行動していたらそれは宗教に近くなる。私は、所属する全員が同じ方向を向いて行動したり、何かにのめりこんだり、一つの考えを信奉したりするのが嫌いである。でも、そこでの活動が自分にとってメリットがあるなら、自ら距離を制御しながら活動を続けるしかない。
他人を信用し、親密になりすぎた故に起きた大きなトラブルが世界を騒がせている。これもまた、他者との適切な距離を保てなかったことが原因と思う。難しいけれど、最後に信じられるのは自分だけなので、リスクを回避しつつ他者との関係を構築していくしかない。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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他者との距離の取り方
2024.3.31