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彼の視界と私の視界


2024.3.10


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 私は全くスポーツには関心がない。ニュースも殆ど見ない。当然、野球のことなど分からない。そんな私が唯一名前を知っている野球選手が大谷翔平選手である。その他の選手は、メジャーリーガーであっても知らない。多分、彼はもうスポーツ選手の領域を超えた存在になっているのだろう。そんな彼が結婚したと言うので、マスコミは連日この話題を流し続けている。お相手探しも盛んである。そんな時、彼の身長が193cmであることを知った。何と、(最近縮んでしまった)私との身長差は40cm近くもあるではないか。

 この事実を知った時、彼の視界は私の視界とは全く違う、ということに思い至った。彼が歩いている横を私が通りかかったとしても、彼には私の頭の(薄くなった)天辺しか見えず、当然ながら顔など全く見えないだろう。逆に、大谷選手と同じくらいの身長の人たちの集団の中に私が入ったとしたら、竹藪の中に迷い込んだかのごとく感じてしまい、上を向いて顔を確認しようとなど思わないに違いない。

 私たちはネット社会に生きていて、様々な情報に触れることができる。多くは映像や音声を含むリアルに近い情報である。それらの多くは、ほぼ全世界共通に見ることが出来る。その結果、私たちは、皆が同じ視界で世界を見ていると誤解してしまってはいないだろうか。確かに、情報の種類や情報量としてだけみれば、私と知人は同じくらいかもしれない。しかし、それをメディアやネットではなく直接受けたときの感覚は個々の人間で異なるはずである。人間にはそれぞれに感覚、感情があるからである。

 AIという強力な武器を手に入れつつある人間は、この先それに頼って行かなければならないのは確かである。AIにも感情がある、という人達もいる。しかし、生身の人間の持つ感覚は持ちようがない。なぜなら、一人一人の人間の異なる感覚をAIに教える術はないからである。AIをうまく使いこなせる存在であるために、人間はこれまで以上に自分の感覚を鋭くしていかなければならない。そのための訓練を怠ってはならない。

「知っているけれど感じられない」ことの弊害はすでに多く見えている。例えば、時代が変わったのでこれはセクハラだと「知っている」けれども、相手がどう感じているかは全く分からないことで生じる不祥事がある。これは、いくらセクハラ、パワハラ教育を行っても改善しない。グローバル化、多様化が叫ばれているのになかなか外国人の雇用や女性の活用が進まない企業は多い。これも研修や情報提供では解決しない問題を含んでいる。実際に感じ取ることのできるところまで進めなければならない。

 かつて、企業の管理職研修ではサイコドラマ風に様々な立場の人を演じる方法を取り入れていた。しかし、参加者は「自分の行動で相手がどう感じるかを想像しつつ振舞う」のではなく、テレビドラマに出てくる「課長」や自分の上司の「部長」の振舞を真似して受けを狙っていた。これもまた「知っている」だけで感じ取ることを忘れている。これを続けていても組織は変わりようがない。

 こんなことを考えていたら、大谷翔平選手の奥さんのイメージが何となく分かってきた。

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