子供ができた直後から強く死を恐れるようになった。たとえ体の大半が失われても生き続けて子供たちを見守らなければならない、とずっと考えていた。それまで空の旅が楽しかったのに、飛行機が怖くてたまらなくなった。その気持ちは、子供たちが成長し私の下を離れてから消えていった。再び死を恐れるようになったのは、夫、父、長年一緒だった愛犬を次々と失ってからである。それは、死というものが無になることと同じだと実感してしまったことによる。私はまだこの世から消えてしまいたくはない、何が何でも生き続けたい、と現在も強く思っている。
できるだけ長く生き続けるのに最も重要なものは何かと考えた時、真っ先に思い浮かぶのは「脳」である。その他の部位なら技術的に代替できる可能性は高い。その考えを後押ししてくれるような新聞記事を見つけた。2023年9月25日の日経新聞朝刊にあった、『身体拡張「超人類」の時代』という記事である。失われた身体機能を代替するものを脳からの信号によって動かすことができるサイボーグになることが可能な時代が来ているのだ。もちろんできる限り現在の身体機能を使いたい。しかし、耳、目、歯、手足などは徐々に機能が弱まりつつある。それでも諦めること無く、私はサイボーグになっても生き続けたい。
一方で、「顔」というものの位置づけについても考えるようになった。きっかけは、コロナ禍の最中に新たに参加するようになった地域のコミュニティでの出来事である。当時は全員がマスクをかけていたので、特に女性は全く誰が誰やら分からなかった。皆、同じような目元と眉の化粧をしていたからである。半年前に一斉にマスクを外すようになって初めて顔を知った。これでは、化粧でいくらでも別人になれるではないか。写真も修正ができるので、好きな顔にいくらでも作り変えられる。しかも、これからは自分自身の好みのアバターを使ってコミュニケーションもできるだろう。そもそも、頭でイメージしている自分の顔、自宅の洗面所の鏡に映る顔、駅のトイレの鏡に映る顔、スマホで自撮りした顔、全てが違っている。自分自身の顔はどれが一番本物に近いのか全く分からない。マイナンバーカードの写真が私自身であるということはクリニックの機械で認識されはしたのだが、何だか釈然としない。自分の顔とは一体何なのか。
結局、私自身のアイデンティティは脳内にしか存在しないのではないかと改めて気づいた。であれば、自分が自分であるためにも「脳」を良い状態で維持しなければならない。すなわち、生きるためにすべきことは脳を劣化させないことである。そのための手段は(有効かそうでないかは不明だが)世の中にあふれている。行きつけの大型書店には広い「脳トレコーナー」まである。私も暇があればナンプレ(数独)をせっせとやっている。
ここから先が問題である。そもそも「脳」を維持してサイボーグになってでも生き続ける理由が無ければ、全てが根底から崩れてしまう。結局は生きる意味を一生考え続ける必要があるということか。それはきつい。目先の目標になる、とにかく楽しいことを探してやってみることにしよう。と言うわけで、来月の一人旅のためにホテルの予約を入れた。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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サイボーグになっても生き続けたい
2023.10.1