思い起こせば、英語を身に着けるために随分お金と時間を使ってきた。学校の授業以外にもマンツーマンの英会話学校(かなり高額)に数年間通った。長距離通勤の往復に数時間テープを聴き続けるヒアリングも十数年続けた。いずれも英語がしゃべれることにはつながらなかった。その理由は分かっている。英語でコミュニケーションをとる必要がないからなのだ。日本語さえ使えれば何ら不自由なく生き延びられる。生きていく上で必要もない能力を脳や体が身に着けようとするだろうか。
赤ちゃんが育った国の言葉を自然に話せるようになるのも、アフリカやインドのような多言語地域の人が自然に多言語が話せるのも、生きていくために必要だからではないか。人間は一人では生きられない。周りの人とコミュニケーションを取るためには言葉が必要である。本来、人間は複数の言語を話せる能力があると私は思っている。だが、生きていく上で必要が無ければその能力は使われなくて当然である。使う機会の少ないものを学習で身に着けようとすることには無理がある。
それでは、私たちは生きるのに必要な最小限の言葉だけを使い、必要に応じてAIによる翻訳に頼っていればよいのだろうか。決してそうではあるまい。自国以外の国や地域の人たちとコミュニケーションを取るには、それだけでは本当に相手の気持を理解することはできない。人間のコミュニケーションは心の働き(感情)を含めた体全体で行うものだからである。事実、気持ちが理解できない相手には危険を感じる。日本は難民や避難民を受け入れる数が他国と比べて非常に少ないが、その原因のひとつとして相手を理解できないことがあるのではないか。多様な人たちと理解しあえる機会はあまりにも少ない。さらにその先にあるのは、多様性を受け入れないことによる「創造の機会」喪失であると私は見ている。
このコラム「ランダム化と多様性」(2022.8.28)でも書いたことがある。長年にわたり企業の社員研修や大学の講義で受講生の話を聞き、レポートを読んできたが、一人一人の思考は年齢を問わず固定化している傾向がある。「自由な発想で柔軟に考えるように」と言ってもひとつの意見に固執してしまう。固定観念は容易には抜けない。しかし、100人のレポートを読んでみると、その意見は多様である。私の気づいていなかった視点や発想が必ず出てくる。そこで、私は必ず全員の考えを全員にフィードバックするようにしている。多様性の力を認識してもらうためである。同じような年代の、大多数が同じ国籍の人たちの集まりでさえそうなのである。これが、幅広い世代の様々な国や地域の多様な文化を持った人の集まりだったらどうだろうか。多様な視点の多様な発想がより多く出てくるはずである。それを共有することで、新たなものが創造されることは明らかだろう。
私の75年の経験を思い起こしてみると、言語の勉強であれば「日本語との違い」が強調され、海外旅行の際には「文化の違い」「マナーの違い」が強調されてきた。自分と違うことは危険だと教えられすぎたのではないか。これからの若い人たちには、もっと多様性を受け入れられる学びができることを期待したい。新たなものを生み出す力を得るためにも。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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多様性を受け入れられないことの先にあるもの
2023.6.25