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考え抜くことなしに時代は変わらない


2023.1.29


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 この数年間、大学の授業において千人近くの学生に毎週レポートを書いてもらい、全てに目を通してきた。振り返ってみると多くの気づきがある。その一つが非常に気になっているので紹介したい。それは、多くの学生の「柔軟な発想」に私自身が感心するレポートの出される週がある一方で、これは昭和か平成前期の考え方ではないか、と思わせる恐ろしく保守的な内容ばかりが出てくる週があることである。特に、後者が多いように思う。若い人ですらこれでは日本の重大な課題である経済の低迷からの回復に対する解決策を見いだすのはかなり困難ではないか、と思えてくる。

 柔軟な発想ができている週のレポートのテーマは、新しいビジネスモデルの案、メタバースの可能性、AIに人間の倫理を教えられるか、といったまだ明確な答えが無いものである。一方、保守的な意見の羅列で終わるレポートのテーマは、今まさに日本で問題視されている「生産性向上」「少子化対策」「社会人の学び直し」「働き方改革」などである。両者の違いはどこにあるか、と考えてみた時、ネットで検索したときに情報が手軽に得られるか否かであることに気づいた。さらに後者の場合、手軽に得られる情報(検索すると上位に出てくるもの)をコピーして素早くレポートにしていることにも気づいた。つまり情報が足りないときは考えるけれど、何かしら見つかったらそれをそのまま使っていると思えるのである。同じような意見、保守的な意見しか出てこないのも当然である。

 私が子育てしていた頃気づいていたのだが、平成に入った頃から全てに対して「コスパ」を重視するようになっていた。勉強してもテストの点数が悪かったら嫌だから勉強しないで運に任せてテストを受けた方がいい、などとテレビのアニメで言っていたのを聞いて、なんて短絡的な考え方かと憤慨したのを覚えている。この考え方が30年の時を越えて当たり前になり、とにかく情報を得て吟味せずにコピーしてその場を繕うということが最もコスパのよい勉強法になっていったとすれば、これは非常に危険である。そこには情報を吟味し内容を判断すること、さらには「自分で考える」という行為が抜けてしまっている。

 とにかく沢山の情報を得ることを重要視するために、ドラマやデジタル教材を倍速で視聴する、とにかく表面的にでも理解した気持ちになって他人と話を合わせる。この先にあるのは、疑うことなく情報を鵜呑みにして同じ考えの人とお互いに同意しあいながら心地よい空間を作っていく世界である。ポピュリズムもネット上のデマや誹謗中傷もその流れの上にあるのではないか。

 かつてネットの無かった頃は情報を得ることが非常に困難だった。わずかな情報からその意味を掴むために考え抜いた。現在は考える手間を省いて、もっと情報を開示しろ、もっとわかるように説明しろ、明確な判断基準を示せ、と言うことが当り前になっている。本当にこれで問題の根本的な解決に結びつくのだろうか。決してそんなことはない。考え抜いて自分の意見を見いだし、それをしっかり持った上で、他人の考えを吟味する。それによって他者の意見を柔軟に受け入れることも、正当に批判することもできるのだ。

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