最近、量子力学の一般向けの解説書を読む機会があった。私は理系とはいえ物理学は専門ではなく、数式とは無縁の生活を数十年続けてきたので理解できる自信はなかったが、結構すんなりと読み終えてしまった。その結果、感動したのは理論の美しさではなく、科学者たちのたゆまない理論追究の姿勢の方だった。一つの理論を打ち立ててそれを表す数式が定義できたとする。それでは説明できない現象が見つかると別の理論が打ち立てられる。さらに、それらを包含する上位の理論が打ち立てられる。その繰り返しである。これは永遠に続くのかもしれない。それでも科学者たちは諦めないだろう。多分、世の中にある疑問は自然科学で解明できるはずだと信じているからである。
ここで、夏に読んだ1冊の本に思い至った。ドイツの若い哲学者マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)である。彼の本はその前に「新実存主義」を読んでいたがよく理解できなかった。しかし、彼の『世界は存在せず、無数の「意味の場」が存在する』は、妙に納得できた。ここで、「世界」とはすべての物を包含する概念である。もしも「世界」が存在すればそれを見ている外部があり、それも世界に取り込まれなければならない。これが無限に続けられるということは「世界」が存在しないことになる。しかし、世の中に存在する個々のものはどこかの「意味の場」には存在する。そして「宇宙」もまたひとつの意味の場である。ガブリエルは、「現実にあるものが宇宙の中にあり、物理学によって研究されうること」を主張するのを「物理学主義」と呼んでいる。まさに量子力学に挑んだ科学者たちは物理学主義者であり、その理論は「宇宙」という意味の場の中に存在していたのだ。一般の人たちは通常は別の意味の場で思考し活動していて、時々「宇宙」の意味の場に入って、何とか理解しようと苦労している。
世界が存在しないのは、世界それ自体が存在する意味の場が存在しないからである。宇宙は無数にある意味の場の一つであり、他にも無数の意味の場がある。複数の意味の場が重なることもあるし、排他的なこともあるだろう。ある宗教を信じる人たちの考え方を外部の人たちが理解できず、信じている人の考えを変えることが困難なのも、戦争が終わらないのも、別々の意味の場で思考し行動しているからではないか。
最近、電車の中でアジア系の外国人のグループに出会うことが多い。話している言葉は全く分からない。以前は中国語か韓国語が大半だったので国籍は想像できたのだが、それもできない。もしも彼らとコミュニケーションしようとしたらどうすればよいだろう。身振り手振り、下手な英語で話しかける、漢字で書いてみる、など色々考えるだろう。つまり言葉でコミュニケーションを取ることの上位概念で解決を図ろうとするはずである。これは人間同士のコミュニケーションを取るという一つの意味の場での思考である。そして、科学者が世の中の疑問を自然科学で解明できると信じるように、人間同士は何らかの方法で必ずコミュニケーションが取れるはずと私は信じている。
世界は存在しなくても、人間が理解しあえる意味の場を作ることはできないだろうか。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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世界は存在しないが宇宙は存在する
2022.10.30