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喜びは知ることから発見することへ


2022.09.04


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 小学校低学年の孫と話をしていると、新しいことを知った喜びが伝わってくる。春には雲の形と天気について嬉々として語っていた。最近は学校でのプログラミング学習についてやっていること、これからやりたいことなど話してくれた。幼い時は「知ること」がほぼ「発見」なのだろう。それが感動を呼び起こすのだ。

 一方、自分自身を振り返ってみると、多くの本を読んでいるが「ふうん」で終わっていることが多い。結果として内容はすぐ忘れる。1,2年して読み返すことも多いが、やはり「ふうん」である。だからといって。専門的な論文をよんでみようなどという意欲も気力もない。少なくとも20代の頃は仲間を集めて海外の専門誌の輪読などをしていたが、今はそのような気持ちにはならない。あのときのワクワク感がないだろうと思ってしまうのだ。 ところがこの夏、「知ること」を「発見すること」に変え、喜びを感じることができた。その間読んだ本は10冊以上に及ぶ。ただし、当初の目的(知ること)は達成されず、発見したのは全く別のことだったのだが。

 知りたかったのは、言語学者ノーム・チョムスキーの提唱する「普遍文法」は存在するのか、人間は生まれつき「言語獲得能力」があるのか、である。これらについては数年前に本で読んでいた。しかし「ふうん」で終わっていて殆ど記憶として残ってはいなかった。なぜこの夏に改めてそれについて注目したのかというと、この理論とは違った理論にもとづいて言語について研究した成果についての本を読んだせいである。それによりチョムスキー先生の理論に疑問を感じてしまったわけである。最終的に、有名な哲学者ウィトゲンシュタインの「人間の言葉は考えうるすべてのことが思考できる極大言語である」「その極大性の条件は論理的な性質である」にたどりつき、「普遍文法」は哲学的な問題ではないかと考えるようになった。それでは私などの手におえるものではない。研究者の皆さんに解明してもらうしかない。これ以上の深追いをすることは諦めた。

 その代わり、面白い発見をすることができた。対立の構図と変遷である。AとB の2つの理論が対立しているとき、対立を煽っているのは理論を作った人よりもその信奉者である。例えば、A理論の本の本体の文章ではBの理論について触れていても批判的な記述をしていない、Bが真であってもAには影響がないと無視しているのに、別人による解説の文章ではあたかもAがBを否定する急先鋒のような書き方をしていることがある。

 信奉者自身も、当初様々な理論があることを容認するような態度でいるのだが、年を経るにつれ、信奉する理論が真であることを前提としてそれを証明することを目的に研究するようになっている。対立する議論の部分をよく読むと、双方少しずつ相手の理論を誤解している。対立の論点も少しずつずらしている。

 その程度の発見でも「ふうん」を積上げて忘れてしまうよりはずっと喜びを感じられた。歳を取れば自然に知っていることは増えてくる。その分、本を読んでも発見の喜びは減る。シニア世代は、子供たちが得る発見の喜びを強制的にでも作っていく必要がある。  

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