この歳になるとできないことが増えてくる。目立ったところでは、若い時には弾けていたピアノが全く弾けなくなった。数年前に腰を痛めてからは、走ることと飛び跳ねることができなくなった。腸閉塞の手術をした後は、消化の良い食べ物しか食べられなくなった。老眼も進んで文字を読むのがつらくなった。こうしたことも、60歳代の頃は「がんばれば取り戻せる」と思っていた。しかし、70歳代になって、無理かもしれないと思うようになり、さらには、失ったものを取り戻そうとすることよりも、新しいことを始めた方が人生が豊かになる、と信じるようになった。そして、できないことは追わないと決めた。
最近、世界の民謡や昔歌っていた懐かしい音楽を聴くようになった。その中で、中学校の音楽の時間に歌っていた歌曲が耳に飛び込んできた。意味も分からずにイタリア語で歌って(歌わせられて?)いた「サンタ・ルチア」である。何度も聴くうちに歌詞が蘇ってきた。もちろん意味は分からない。私は声も出ないし、音程も外すし、一生人前で歌うことなどないと思い込んでいたのだが、ちょっと歌ってみたくなった。まずは、毎日の散歩中にマスクの下で何度も口ずさんでいた。次に家に帰って小さい声で歌ってみた。最初は情けない声しか出なかった。それでも少しずつ声を出していくうちに音程もしっかりしてきた。やればできるじゃないか、と嬉しくなった。60年間身体の奥底に潜んでいたものが蘇ったようだ。
5月の連休明けに新しいコミュニティでの活動を開始した。そこでは、小さな子供たちと踊ったりゲームをしたりする時間がある。子供たちは走り回っている。それを追いかけていたらいつの間にか私も走っていた。「何だ、走れているじゃないか」と気づいた瞬間だった。しかも身軽に動き回ることもできている。走れない、飛び跳ねられないと思い込んでいただけだったのか。私の体の中にはまだ様々な可能性が潜んでいるかもしれない。
そろそろ梅雨に入る。我が家の狭い庭にはビワと梅の木がある。ビワは40年以上前に子供が投げたビワの種から目が出て育ったものである。毎年、梅雨時になるとビワの実が沢山ついて食べきれないほどである。今年も黄色く色づき始めている。一方、梅の木は20年位前に植木屋から購入した紅梅で、2月に沢山の花をつけて私たちの目を楽しませてくれている。ただし、一度として大きな実がついたことがなかった。いつも、小指の爪くらいの大きさになるとすべての実が落ちてしまう。これは花を楽しむもので実らない品種なのだと信じていた。しかし、なぜか今年は実が全然落ちていない。よく見てみると親指の先くらいに育った実がいくつもついている。一体どういうことなのか。どこかから別の品種の花粉が飛んできたのだろうか。でも近所に梅の木はない。果たしてどこまで大きくなるか、楽しみである。すぐに落ちてしまうかもしれないが、それでも来年以降に期待が持てる。
できないことは追わず新しいことを始める、というプラス思考は良いことと思っていたが、ちょっと考え直し始めた。できないと諦めるのは早すぎてはいけない。体の中には可能性がまだまだ残っている。我が家の梅も実らないものと決めつけるのは早すぎた。人生は長い。植物だって同じだ。時間はかかっても焦らずに待ってみよう。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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諦めるのは早すぎたようだ
2022.06.05