今年の大型連休は天候が不順だったのも関わらず、連日、観光地に繰り出す人たちの群れが報道されていた。家に閉じこもってばかりでは息が詰まるのでたまには羽を伸ばしたい。マスクをして屋外にいれば大丈夫なはず。外で遊ばせないと子供たちがかわいそう。などなど、理由は様々である。変異株の感染力の強さ、重症化リスクの高さ、医療のひっ迫で救える命が救えない、などなどの連日の報道は全く響いていないようである。なぜ、私たちはコロナに対して強い危機感を持ち続けられないのだろう。
ある朝、目覚めるときにおかしなことを考えた。最近、自分の身内や知り合いで亡くなった人はどれほどいただろう。数年以内ではごく近い親族を2人亡くしている。さらに、恩師、恩人、同級生、など毎年のように亡くなっている。知り合いの親族まで含めれば、毎年かなりの人の死を知ったことになる。そのたびに、いつか自分にもその時が来るだろう、せめてそれが遅く訪れてほしい、と強く願う。正直、死にたくないから生きているようなものである。ところが、「死」という最も恐怖を呼び起こす出来事がこれだけ身近に起きているのに、私は自分の家族、親戚、知人、そのまた知人まで広げても、一人もコロナに感染した人を知らないのだ。おそらく、多くの人が同じ状況なのではないか。
コロナの感染者は(とくに首都圏に住む者にとって)数字でしか表れない。100人であろうと、1000人であろうと、5000人であろうと、そこに個々の患者の姿は見えない。棒グラフになったり円グラフになったりと形が変わっても同様である。データの信ぴょう性を疑う気持ちは全くない。変異株と置き換わったせいで感染が拡大していることは事実である。それがこれまでよりも強い危機感を呼び起こしているかというと疑問に感じる。
「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスの「盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?」を読んでいて、次の文章に行き当たった。「本来われわれの脳は、短期間のできごとの危険率を評価するようにできているばかりでなく、自分に個人的に起こる、あるいは自分が知っている狭い仲間うちの人たちに起こる出来事の危険率を評価するようにもできている」。つまり、人間の脳の進化の過程からみると『感染した誰かを知っている誰かを知っている』程度まで来ないと危険を実感できないと思われるのである。
とは言え、私自身のコロナに対する恐怖はこれまで以上に強まっている。それは、仕事で都内に出かけて、学生や通勤者の群れに入っていくときに感じる。友人や同僚と会話しながら歩いている人たち、中高生の運動部員の団体と遭遇するたびに、若者も感染するリスクが高まっているのに大丈夫なのだろうか、と思う。でも、危機感を持っていても行動に影響するかは疑問である。学生も通勤者も個人の意思よりも組織の方針に従うものだからである。数字や棒グラフ、円グラフの力よりも組織の力の方が強いに決まっている。
私自身は、家族にも会わず、外食もせず、もちろん旅行にもいかず、玄関を一歩出ればマスクは決して外さず、手洗いは励行している。でも、大学講師なので、対面授業が続く限り大学に出勤しなければならない。最近、不織布マスクを二重にしてかけるようになった。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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なぜ強い危機感を持てないのだろうか
2021.05.09