私が大学の非常勤講師として担当している授業においては、毎回必ずレポートを提出させている。レポートの課題は正解の分からないものばかりである。例えば「AIに人間の倫理を教えられるか」といったものになる。学生はその課題の意味を調べ、その解答について自分の知識を総動員して考え、わからなければ誰かが知っていないかを調べる。最終的には総合的に判断した上で解答を作成して提出する。次の週に、私は「解答の解説」を行う。それは、提出された全員の解答と私自身の考えを総合したものである。決して正解とは言えないが、現段階で多くの有識者が正しいと思っていることに近い内容ではある。
このようなレポートに不満を持つ学生もいる。「正解」を教えてくれないことへの不満である。これは大学に限ったことではなく、過去に企業で研修を行っていた時代にもよく聞こえてきた。例えばあるケーススタディに基づいて受講生がディスカッションし、意見をまとめて最後に報告する、という研修では、アンケートの中に必ず「正解を教えて欲しい」という意見が入っていた。しかし、実は正解があればこちらが教えて欲しいくらいである。レポートもディスカッションも自分で考えることの訓練なのである。
テレビのニュース・ショーをつければ、新型コロナウィルス感染者数のグラフが出され、キャスターが感染症の専門家に「どう思われますか」などと聞いている。そんなこと専門家に聞くまでもなく分かる。次に「これから秋に向けてどうなると思われますか」などと聞く。そんなこと専門家だって分かるわけがない。分かっていればとっくに対策が打たれているはずである。我々の抱えている問題は「正解の分からない問」なのである。誰かに答えを教えてもらうのではなく、ひとり一人が知恵を絞り、お互いに情報交換しあい、総合的に「その時点で最善のもの」を見出していかなければならないのだ。
現在の「正解の分からない問」は過去には「もっと難しい問」だったことを忘れてはならない。時間の経過とともに情報が増えきている。現段階からみれば明らかに失敗だった対策をただ批判しても意味がない。あの時点では誰も何が正しいか分かっていなかったのだから。そして今の対策も将来は間違いだと分かるかもしれないのだから。批判するより間違いから学んで、現段階の知恵を集約して最善策を見出すことに注力すべきなのだ。
正解が分からないと言うことは不安である。そのせいで「実は分かっているのに隠しているのではないか」「自分の都合で勝手な振舞いをしているのではないか」という方向に意識を向けがちになる。その挙句に誹謗中傷、暴力的行動まで起きる。感染者を出したことで大きなダメージを受けた人たちをさらに叩こうとするなど、何という理不尽で不毛な行為だろうか。
大多数の知恵が強力であることは疑いがない。長年悩んでいたことがGoogle検索であっという間に解消した経験は誰にもあるだろう。正解が分からない問は、正解が無い問ではない。冷静になって、多くの人の知恵を集約すればきっと解は見つかるはずである。同時に、沢山のデータを集めて富岳の力も借りようではないか。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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正解の分からない問への対処方法
2020.08.30